ぶらり沖縄人

沖縄ではなく、沖縄人がぶらぶらしてるようです

6月23日慰霊の日。沖縄の今を考えてみる。

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リアリティあふれる写真から始まります今日のぶらおき。

 

今日6月23日は沖縄では慰霊の日となっている

1945年4月1日アメリカ軍沖縄本島上陸によって本格的に開始された沖縄戦は、第32軍司令官牛島満大将(当時は中将)をはじめとする司令部が自決した日をもって組織的戦闘が終結したとされている・・・(以下Wiki参照)

慰霊の日 - Wikipedia

 

そして、この写真は僕の祖母の写っている写真。今は亡くなってしまったが、生前祖母が大事にとってあった写真をスキャンしたもの。(念のため無断転載等はやめてください)

 

今から約68年前位(詳細不明)だろうか、終戦後の沖縄の様子が良くわかる。オバーのアルバムに眠っていた写真のため戦後の資料等にも平和祈念館にも、どこへも出てはいない。

 

終戦から70年。今日は少し今なにかと騒がしい沖縄の基地問題や平和への思いなどを私的思考満載で書いていこう。

 

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 まず初めに申し上げておく、僕は最近の(沖縄についての)メディアでの報道やそれに伴って過熱するネットでの意見等等。できるだけ平等にあくまで中立の立場で見て・聞いて・考えるようにしている。

 

どうやら現在の日本社会では『左』か『右』か。『味方』なのか『敵』なのか。『こちら側』か『あちら側』か・・・といった具合に政治的にも例えば会社的にも、どちらかに分けることを強要している節があると感じる。

 

が、そういったモノの考えは一方の属集団に入れば、全ての意見をその集団に合わせなければならないのか?個としての意見はどこまで尊重されるのか?・・・といった考えにブチ当たるので、集団の意見に惑わされることなく自分の意思で考えることにしている。

 

今の沖縄の問題はいったい誰が主役で、何が起こっているのか。 

(もちろん本当の事なんて誰にも分からないが・・・)

 

僕は別に沖縄戦や歴史問題等に詳しいわけではない。むしろ疎いほうだとも思う。

 

しかし沖縄で生まれ育った僕が、自分自身の意見として感じたことを述べていく。そこには左も右もない。

 

戦後から現在までをざっくりと

太平洋戦争の中の沖縄戦

まずこの地で70年前に戦争があった。

 

「この地」とは沖縄のことではない「日本」の事だ。この時期何かと沖縄戦ばかり取りざたされるが、日本全土が滅茶苦茶になった太平洋戦争が70年前に起こったのだ。

 

その中で沖縄戦は最大規模の地上戦が行われた地でもあり、と同時に民間人である人々が大勢犠牲になった戦争だった。

 

沖縄戦のことを説明すると長くなるので興味のある方はWikipediaでどうぞ、30分では読めるかと。

沖縄戦 - Wikipedia

 

そして戦争は終わり、日本は本当にドン底からのスタートをきったのだ。

 

戦後復興、そして本土復帰へ

沖縄に視点を当ててみても、同様にドン底からの出発であったはずだ。

 

まず人口が減った、体感的にいえば身近な人間がいなくなったのだ。

 

家族、友人、恋人、近所の人 が死んだ。現在でも正確な数字が分かっていないほどの大勢が犠牲になった。

 

しかしながらその頃の沖縄はきっと今のような、「戦争が終わったことに対する平和への思い。」なんてものは皆無だったと思う。 皆生きるのに精一杯、今日明日を生きる。ただそれだけであっただろう。

 

そして日本の奇跡とも呼ばれる戦後復興を遂げ始めた日本。沖縄県民も頑張った、頑張って頑張って毎日を生きていった。この時代を支えた今のお年寄り達には本当に尊敬する。

 

しかし、問題がひとつ。

 

まだ「沖縄」は「OKINAWA」であり、日本ではなかったのだ。

 

終戦の1945年から1972年まで沖縄はいわゆるアメリカの統治下にあった。例えば内地である東京や大阪へ行くにはパスポートが必要だったし、通貨もドル(実際には『B円』等の色んな通貨変更も経た)車は左側通行だし、しかもこの間まで一緒に向かい合ってドンパチやってたアメリカ軍も隣にいるし・・・。

 

それでもオジーオバーの世代は必死になって頑張った。子のため孫のため、未来のために。

 

そして1972年5月、ついにその日は来た。沖縄が日本本土に復帰したのだ。が、アメリカ統治下ではなくなったとはいえ米軍は残った。

 

アメリカ統治下時代から米軍関係の問題が様々起きていたため、コザ暴動に代表される反米・反基地運動が一気に高まった。

 

コザ暴動(コザぼうどう、Koza Riot)とは、1970年12月20日未明、アメリカ施政権下の沖縄コザ市(現在の沖縄県沖縄市)で発生したアメリカ軍車両および施設に対する焼き討ち事件である。直接の契機は米軍人が沖縄人[3]をはねた交通事故であるが、その背景には米施政下での圧制、人権侵害に対する沖縄人の不満があった。コザ騒動(コザそうどう)、コザ事件(コザじけん)、コザ騒乱(コザそうらん)とも呼ばれる。

コザ暴動 - Wikipedia

 

そして時代は現在、辺野古移設やオスプレイに代表される問題が連日国会や県議会でも取り沙汰され報道されているのはご承知のとおりだ・・・・。

 

さて本当に簡素化にして沖縄の70年を振り返った。

 

しかし物事はそう単純ではない、ここからは僕が思う「以前とは何か矛盾を感じる反米・反基地運動の動き」について触れていく。

 

アメリカ文化との融合

戦後70年。この島はある意味ではアメリカとの共存で復興してきた、といっても過言ではない。

 

ここが沖縄人の沖縄人たる魂の凄いとこで、まず根本的にお人好しなのだ。それはいい意味で言うと「人が良い。」

 

確かに統治下時代もそれ以降も多くの米軍基地が残った、が、ならばいっそのことアメリカの文化も取り入れてしまおうでないか。といって「チャンプルー文化」と呼ばれる、沖縄文化とアメリカ文化の融合が起こっていったのだ。

 

沖縄県は古くから、日本本土や中国文化の影響も受けてきたほか、第二次世界大戦後のアメリカ軍による統治を経験し、それぞれの文化と接することで常に影響を受け続けてきた。それらを柔軟に受け入れて、独自に生み出された沖縄県の文化を「チャンプルー文化」と呼ぶことがある。例えば、江戸時代に日本と中国の貿易の中継点とされたことから、沖縄近海では採れない昆布を用いた料理が盛んになった点や、米軍基地に滞在するアメリカ人からの影響を受けて、コンディション・グリーン2side1BRAINなどの「オキナワン・ロック」と呼ばれるロックの系統を生み出した点などは、チャンプルー文化の産物である。

チャンプルー - Wikipediaの記事一番下

 

今でも沖縄に旅行に行けば、A&WやJEFなどのパーキング形式のファストフード店に行く方も多いのでは?それから細かいけどゴルフのラウンドもアメリカ式(18Hスループレー) 牛乳は1Lではなく946ml!(1/4ガロン)

全て未だに続いているチャンプルー文化だ。

 

そしてそんなチャンプルー文化を観光産業のひとつとして売りにしていたのも事実であった。

 

また観光だけではなく基地での雇用、基地周辺での雇用など。地域への経済貢献も無視できない存在だった。

 

1995年の事件が全てを変えた

つまりそんなこんなで基地に反対する人もいたが、同じく賛成する人だっていたのだ。どちらも何だかんだで折り合いをつけながらやってきたのが当時の沖縄だった。

 

が、そんな賛成派も反対派も意見を同一にする大問題が起こった。

 

1995年に起こった、いわゆる「米兵少女暴行事件」

沖縄米兵少女暴行事件 - Wikipedia

知ってた人も知らなかった人も、まずはWikiで一読してもらいたい。

 

この事件では数名の米軍関係者が関与していたとされ日本側(沖縄県警)は逮捕状を請求。にも関わらず当初は日本側の捜査は一切認められなかったのだ。

 

 「日米地位協定」 (正しくは『日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定』

この協定を見直さない限り、今後の沖縄と米軍との関係は絶対に良くならない。

 

あまりにも理不尽すぎるアメリカの対応に、これには沖縄県民総意で憤りをあらわにした。それこそ基地賛成派も。

 

結果的には色々な運動が功を奏したのか、犯人は日本の裁判所で判決を受けた。が、この事件以降「良き隣人」と謳ってきたアメリカとの溝が一気に深まったように感じた。

 

反基地よりも日米地位協定の見直し

この事件の影響もあり、どちらかといえば1990年代の沖縄は「基地撤廃」よりも「日米地位協定の見直し」の方が大きな主張であったと思う。

 

基地反対運動ももちろんあったが、やはり何だかんだで基地とは上手くやっていっていたのだ・・・良き隣人として(←このセリフはよくアメリカ側が使う)

しかしその隣人は犯罪を犯しても罰されずに済む。となっては理不尽すぎる。そのために地位協定を見直そう、そういった感じだった。

 

が現在はどうか?

 

反基地・反米をスローガンに、「アメリカは出て行け!ヤンキーゴーホーム!」と、しまいにはもっと直接的な事までやっている。

 

あれ?沖縄ってアメリカと何だかんだでうまくやってたはずなのに。

チャンプルー文化はいったいどこへ行ったの?

 

最近矛盾を感じること

沖縄メディアの2大新聞社

もうお分かりだと思うが、「琉球新報社」と「沖縄タイムス社」である。

 

ネットでも事あるごとに槍玉にあげられるこの2つの新聞社。結構紙面は普通の新聞、ただし基地問題や平和問題以外だが・・・。

 

こと米軍関係の犯罪ともなれば、軽犯罪であろうと一面トップで出してくる。いやいや沖縄県民でも犯罪者はいるだろうて・・・。

 

が、しかし僕的にはそれでもいいと思っている。

 

もちろんメディアとは公平中立であるべきだと思うが、それは理想論にしか過ぎず、例えばスポンサーの悪口は言えないし社の方針には従わざるを得ない状況だってあるはずだ。

 

すなわち重要になるのは受け取る側の問題。

 

最低でも異なる論調を持つ2紙(新聞を例にすれば)を読み比べ、どういった目線でこの記事を書いているのかを考えながら読むだけでも視点は広がってくる。

 

しかし残念なのは県内の2大新聞社がどちらも同じ様な方向性をもつ新聞だということだ。これは本当に沖縄県にとっては残念なことだと思う。

県外紙も取ることはできるが手間がかかるためなかなか行っている人は少ない。

 

TVメディアもこれに追従といった様子。いつまでもこの状態だと多角的に物を見る人材もいなくなるのではないか・・・。

「沖縄の海を守れ!」活動。

これは僕の中でも一番腑に落ちない活動。辺野古の海などでよくみる光景。

 

ハッキリいって沖縄県民としては「海を守れ」運動なんて数十年前からやっている、が、事あるごとに裏切られ続けている。市や県にだ。

 

辺野古の活動家は、この30年で沖縄のどれだけの海が埋め立てられてきたか知っているのだろうか?

 

僕は釣りが好きなので小さい頃から海に行っていた、だからこそ良くわかる。そしてその埋め立てを行ってきたのは市や県である行政ではないのか? 自然保護を盾にして辺野古での反対運動のエネルギーにしているのでは? なぜ県の発展のための埋め立ては地元の反対を押し切ってまで行うのに、辺野古ではああなのか?

全く腑に落ちない。

 

宜野湾市民はどう思っているのか?

そもそも辺野古の基地建設とは、市街地にある普天間基地の危険性を排除するために辺野古地区(ここは北部の山と海ばかりなので住宅などはほとんどない)へ移設する計画のことだ。

 

宜野湾市(普天間基地のある市)に昔から住んでいる僕の友人は辺野古移設案賛成派のひとり。沖縄メディアは全く報じないが普天間基地移設賛成運動というものもあるのだ。

 

反対派の方の意見は沢山聞いてきた、が賛成派の意見もそろそろ聞いてみるべきではないか。

 

組合活動としての県民大会参加は県民総意?

これも変な事のひとつ。

 

毎年沖縄で行われる基地反対をテーマにしたイベント事。平和行進や人間の鎖(人々が手をつないで基地をとりかこむ運動)などの運動。これには多数の労働組合が参加している。

 

僕の知り合いはとある会社で働いているのだが、毎年この時期になるとこういった平和活動へ駆り出される。本人には全くそういった思想や考えは無いそうだ、ただ組織の労働組合活動の一環として行わなければならず、しかも日当が出るため嬉々として出掛けている。

 

もちろん運動の全てがそういった人達だけではない。が、果たしてこれも県民の総意といえるのだろうか。

 

組合活動の一環でのこういった運動への参加はどうも ?な気がする。

 

それでも沖縄が好きだ

最後になるが、では沖縄から本当に米軍基地が撤退するとどなるのだろう?

 

中国が攻めてくるぞー!・・・なんていう飛躍した政治的な話は少し置いておいて。

 

もし今ある米軍基地が全て無くなることは、つまり沖縄や地主へ返還されるということ。では返還後の土地はどうするのか?

 

そのまま空き地にしておくわけにはいかない。有効活用する他ないだろう。さて、その場合に得をするのはいったい誰なのだろう。

 

とまぁこれ以上の推察は陰謀論にまでなりそうなので止めよう。

 

おわりに

色々と独り語りをしたが、最近の基地問題に絡む動きが凄く大きく早くなっているのに違和感を感じて書いてみた次第。

 

ただ流れに流されずに、色んな目線で物事を捉えて考える必要性が今の沖縄には必要なのだと感じる。

 

戦後70年。いつまでも恒久的に平和が続くことを祈って。

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